地下足袋山中考 NO11

<奥森吉の変遷A ノロ川牧場開発とクマゲラの発見>

昭和初期の小又峡ダム開発中止以来、平穏の日々を重ねてきたノロ川流域のブナの森に新たな開発の波が押し寄せてきた。それは、1974(S49)から5ヵ年計画で始まったノロ川牧場県営草地開発整備事業だ。秋田県公共牧場ネットワーク構想に基づき、旧森吉町が県畜産公社に造成委託し約500fの原生林を伐採し250fを草地開発する事業だ。▲前年の1973年には開発対象地域が自然公園の第3種特別地域から伐採規制のない普通地域に変更され準備は整っていた。年々天然林が減少している秋田営林局と地元製材会社、夏山冬里方式の畜産振興を掲げる旧森吉町と畜産関係者、国のパイロット事業推進を掲げる秋田県の思惑は見事に合致し伐採が始まった。▲草地開発に向けた皆伐作業が進行する中でクマゲラが発見された。地元森吉山岳会長の()庄司国千代氏が1975(S50)に森吉山のブナ伐採地でクマゲラを目撃。連絡を受けた秋田大学、県自然保護課職員が現地に入り生息を確認。日本野鳥の会の有志が手弁当で森吉山に日参しクマゲラの生息調査を続ける。本州には生息しないとされた国の天然記念物のクマゲラが発見されたことで、流域の自然価値が見直された。▲野鳥関係者の動きに対し、当時、小又峡の再調査を計画していた文化庁が動いた。小又峡の上流部に広大なブナ原生林が残り、クマゲラの生息が確認されたことの意義を評価。しかし、同地域の学術的報告に乏しいため、保護対策を講ずる地域及び対策が明らかでないとし、小又峡天然記念物特別調査を実施(1976(S51)6.287.2)。併せて国の天然記念物指定の可能性も調査の狙いとした▲調査団は小又峡の学術的価値を絶賛し、その神秘性に感嘆の声があがった。小又峡と上流部を班編成で調査。さらにクマゲラ班を別編成した。当時の文化財調査管桜井信夫氏は、「小又峡の地質・水域だけを指定したのでは十分でない。動植物も含めて、尾瀬ヶ原のような国の文化財保護区(2000f)にして総合的な保護を検討したい」との意向を打ち出し、文化財保護区指定が再検討されることになった▲しかし、同地域で進行中のノロ川県営草地開発事業が立ちはだかった。当時の庄司国千代会長らは「鳥か人ではなく、人も鳥も共存できる環境の接点はあるはずだ。クマゲラが生まれてくる環境を残してやるのも人間の義務のはず」と原生林の伐採に対し計画見直しの声を上げたが、年々、天然林の伐採量が減少している秋田営林局にとっても、町の主力産業である林業関係者にとっても森吉山のブナはドル箱であった。「たかだか、幾つがいのクマゲラのために迷惑だ」「林業はどうなるのか 原木供給をどうするのか」「鳥ごときに生活を奪われてはたまらない」など、クマゲラアレルギーは大きかった。40年前に前田村住民がダムの水没から守ったブナの森を残そうという声はついに起きなかった▲1977(S52)10月には、秋田魁新報社が隊員12名を組織し小又峡奥地調査を11日間に渡って実施。20連載「滝と森と獣たちの王国」の記事は、小又峡及び流域の現状と保護の問いかけを高尚な見地から提言し大きな反響を呼んだ。同年、伐採の進行に危機感を抱いた県自然保護課は、クマゲラの生息調査を本格開始した。1977(S53)に県から調査を依頼された秋田大学の小笠原ロ教授らによって営巣と繁殖が初めて確認された。さらに197879年(S5354)には、県教育委員会が先に実施した文化庁特別調査を補管するため、小又峡周辺地域特別学術補足調査を実施。報告書は小又峡の優れた景観維持とクマゲラの保護には、ノロ川流域一帯のブナ林の現状保全が不可欠。併せて、牧場の造成もこれ以上拡大することなく、同地域の開発計画に検討を加える必要性を強調▲しかし、地元営林局サイドと原木供給を求める地元との調整がつかず国の天然記念物指定は保留となった。S53年にクマゲラの営巣を確認以来、S55年までに合計9羽のひなが巣立ったが、林道開発と伐採が進行しS56年以降は繁殖が確認されなくなる。<次号へ続く>(2010.7.18